朝、目が覚めて。俺は喉に異変を感じた。
「ん? あ~あー。あ~~~」
声を出すたびにわずかな痛みが走る。
これはもしかすると、風邪か?
プチを手に入れてから修行をするようになり、体力をつけた俺は、いままで怪我をしたことはあっても、風邪知らずだったけど、これは久々にやられたかもしれない。
それでも、喉の痛みがあるだけで、熱も無ければ鼻水も出ていない。引きはじめってやつなんだろうな。
今、クラスでは風邪がはやっていた。昨日、姦し娘三人組のうちの一人、桜庭もマスクをしていた。でもまぁ、手洗いうがいをして、よく食べよく眠れば何とかなるだろう。
俺はいつもどおり、朝の修行を行ってから学校へ行った。
「ねぇ、稲葉」
二時間目の終わり、田代が声をかけてきた。
「なんだよ」
「あんた、もしかして喉痛かったりする?」
「え? あぁ、ちょっと」
「やっぱり。 なんかちょっと声おかしいもん。それに、気づいてないみたいだけど、授業中珍しく咳してたし」
「あ、言われてみればそうかも」
朝はちょっとした違和感くらいの痛みが、今はかなりひりひりしている。そういえば、少し息苦しいような……。たんが絡んでるのかもな。
「はい、これでも舐めてな」
田代のポケットの中から出てきたのは飴玉。小粒の梅干味が三つ俺の机に置かれた。
「サンキュ」
「なるべく喉乾燥しないようにしておいたほうがいいよ」
「おう」
俺は早速一つ口に入れた。うん。すっぱいけど、少し甘くて喉にいい感じ。
「なになに? 稲葉君も風邪?」
よってきたのは桜庭だった。桜庭は今日も大きなマスクをしている。
「桜庭、風邪か?」
「うん。今はやってるからね~。今年の風邪は喉に来るよ。稲葉君早めに葛根湯飲んどいたほうがいいよ」
「おう」
「そしてコレ、梅のど飴。私のど飴はコレが一番好き」
「あ、それわかる。のど飴だけどおいしいよね~」
「ね~。ハイ、稲葉君」
「サンキュ」
俺の机はいつの間にか飴だらけになった。そこへよくつるんでいる最後の一人、垣内がやってきた。
「桜も稲葉も風邪だって? ほら、コレ食べときなよ。ビタミンC」
垣内が持ってきたのは、ビタミン剤のタブレットだった。
「風邪の時はビタミンCとるのがいいって言うでしょ?」
「よくそんなの持ってるな」
「陸上部だもん。健康第一。栄養バランスには気をつけてるからね」
「へぇ~さっすが~!」
「はいはい、風邪っ引きはこれ二粒食べて。噛んで大丈夫なヤツだから」
垣内に促されて、桜庭の後に俺も二粒もらって食べた。すっぱいだろうなとは覚悟していたが、思った以上にすっぱかった。でも、コレはコレで「目の覚めるすっぱさ」って感じで、飴で甘かった口の中がすっきりした。
それにしても、なんでこいつらのポケットには飴やらなんやら食べ物が入っているんだ?
まぁ、おかげで喉の痛みが引いたから、助かったけど。
昼休み、日差しが出ていたので、いつもの屋上の給水塔へむかった。幸い午前の授業では喉の痛み以外、あまり体調が悪くなるようなことも無かった。食欲も、そこそこある。この調子なら風邪はたいしたこと無いかもしれない。
給水塔のはしごを上ると、そこには先客がいた。千晶だ。
いつも食後の一服を吸いにこの給水塔上へ来るので、俺より先に来ているということは、早めに飯を食ったってことだろう。タバコの残りが短かった。
「早いね」
「おう。今日はこれからが忙しいんだよ」
「さいですか」
「お前風邪だって? 気をつけろよ。今日はココ、少し寒いぞ」
残り短い煙草の煙を最後に大きく吸い込んで、千晶は携帯灰皿に吸殻を押し込んだ。
なんで、千晶まで風邪のこと知ってんだよ。まぁ、情報源はだいたい想像つくが……。
「ほら、やるよ」
千晶から渡されたものはスポーツドリンクのペットボトルだった。
「ちゃんと水分とっとけよ」
「……あ、りがとう」
いつもと逆の立場に立たされ、俺はちょっと面食らった。いつもフラフラしているのは貧血症の千晶のほうだからだ。
千晶はペットボトルを渡すと、「お大事に」とのこして階段を下りて行ってしまった。
「千晶のやつ、これ俺のために買ってきたってことだよな」
手の中にある口のあいていないペットボトルは、少しぬるくなっていた。
もしかして、俺にコレ渡すためにここで待ってたのか……?
「うわ……、なんかちょっと……うれしい……かも」
俺は早速封を切ってスポーツドリンクでのどを潤した。
食欲は落ちていなかったので、俺はるり子さんの作ってくれたボリューム満点超美味飯をぺろりと平らげ、日向ぼっこをしながら少し横になった。コンクリートがほんのり温まっていてちょうどいい温度だった。
午後の授業から、徐々に体調は下降気味となった。帰る頃には、関節が痛くなってきて、歩くのすらつらい。熱が出だしたのかもしれない。
幸いバイトの日ではなかったから、俺はとっととアパートに帰ることにした。
だるくなった体を引きずって戻ると、玄関までクリが迎えに出てきてくれていた。口のきけないクリは、いつもと違う俺の様子に首を傾げ、心配そうな顔を向けてくる。
「ただいまクリ。ちょっと風邪みたいなんだ。幽霊に風が移ることはないと思うけど、あんまりかまってやれないかも」
頭をなでながら話すと、クリは眉毛を八の字にして、悲しそうな顔になった。「ごめんな~」と声をかけると、くるりと回れ右をして、居間の方へ走って行ってしまった。
「とりあえずは、通じたんだろうな」
俺は居間にはよらず、自分の部屋に向かった。しわになるといけないので、制服だけは脱いで布団にもぐりこむ。すぐに眠りにつければ楽なのに、いざ布団に入ってみると寝付けない。体のあちこちがぎしぎし音を立てているような感覚と、のどの痛みが邪魔をしていた。
気がつくと、目の前に詩人と桔梗さんがいた。
「あれ?」
「夕士クン大丈夫かい? 靴があるのに顔出さないから、どうしたのかなと思って来てみたら返事もない。悪いがあがらせてもらったよ」
詩人が俺のおでこに手を乗せ、熱を計っている。いつのまにか眠っていたらしい。
「すみません、気がつかなかった」
「そりゃそうだよ。こんなに熱が高いんだ。桔梗さん、薬持ってきたかい?」
「あぁ、ここにある。こないだ薬屋が来た時に買っておいたからね」
桔梗さんはそう言ってハトロン紙に包まれた薬を見せてくれた。
「薬屋って……あの怪しいお面の……」
「そうそう、薬屋の薬はよく効くんだよ」
「何が入っているか解らないけどね。さぁ、ちょっと起きられるかな」
詩人の支えで俺は体を起こした。体を起こすと、背にシャツが張り付いた。そうとう汗をかいていたらしい。
「だいぶ汗かいてるね。上だけでも着替えるといい」
桔梗さんが、部屋の隅に置いてある洗濯済みの衣服の中から、Tシャツを取ってきてくれた。
「おや、クリ。タオル持ってきてくれたのかい? 気がきくね」
桔梗さんの声に扉の方を振り返ると、クリがシロといっしょに手にタオルを持って立っていた。クリは、俺が気づくと裸足の足でタッタッタと走ってきた。そして、最後止まりきれずに俺の上に倒れこんだ。
「クリ~、大丈夫か?」
周りの心配をよそに、クリはすっくと立ち上がると、俺の方へタオルを差し出す。表情の乏しいクリが、必死な目でタオルを握りしめている。俺は迂闊にも涙が出そうになった。
「クリ、ありがとな~」
頭をなでてやると、ぎゅっと抱きついてきた。俺もクリを抱きしめた。風邪で気力が落ちているからか、抱きついてくるクリのぬくもりがとても心地よかった。
「ほらほら、夕士クン早く着替えなきゃ、クリこっちおいで」
詩人がクリをはがしたので、俺は上を脱ぎ汗を拭ってTシャツに着替えた。関節がガッチガチに固まっていて動かすたびに痛んだが、渇いたTシャツは肌に気持ち良かった。
「本当はご飯食べてからがいいんだけど、先に薬飲んで寝てなさいな」
桔梗さんに薬と水を渡され、俺は一瞬躊躇したが、思い切って薬屋の薬を飲んだ。味は、はっきりいって苦かった。
水をがぶ飲みする俺を見て、詩人が笑った。
「ははは、良薬は口に苦しというからね」
それから俺は布団にもぐり、今度はすぐに眠ることができた。
気がついたら朝だった。
朝の八時、いつもなら学校出ている時間だ。
起き上がると、額から湿った手拭いが落ちてきた。
「あ、だれかが持ってきてくれたのか」
見渡してみると、横に水の張った洗面器もある。
「おう、夕士起きたか。おはようさん」
扉から顔を出してきたのは画家だった。
「おはようござます。あの、これ……」
「あぁ、みんながとっかえひっかえ様子見に来てたんだよ。今日は念のため学校休んでおきな。今一色が学校に電話いれてっからよ」
「うわ、すみません。なんかいろんな人に迷惑かけちゃって」
「んなこと病人が気にすんな。どうしてもってんなら、俺らがまいっちまった時、その分返せばいいんだよ」
画家はそう言って出て行った。
「次、誰かが病気になったとき、か……。病気ねぇ……」
このアパートにいるのは、妖怪か幽霊か半分人間かどうか分かんないような人だらけだ。いつその時がやってくるのやら。
そんなことを考えていると、佐藤さんがおかゆを抱えて現れた。
「ほら、夕士君。腹減ったろ。昨日の夜、食ってないもんな」
言われてみれば、今までずっと寝っぱなっしだった。
「わ、すみません。ありがとうございます」
「食欲はある?」
「全然あります」
お盆の上には土鍋に入った卵がゆと、キュウリと白菜と人参の漬物、大きな梅干し一粒と根菜と鳥の煮物が載っていた。
「うぅ……うまい。胃にしみます!」
アツアツのおかゆを口に運びながら俺が言うと、佐藤さんはニッコリほほ笑んだ。
「うん。大丈夫そうだね。じゃぁ僕はそろそろ会社に行ってくるよ。食べ終わったらそのまま横においておいていいからね。そうそう、それと薬。置いとくね。寝る前に飲むんだよ」
俺は少し苦笑いして佐藤さんに手を振った。
ご飯を食べていて気がついたけど、起きてからいままで、関節が昨日のように痛くない。のどはまだ少し違和感があるけれど、きっと熱も引いているんだと思う。
「この薬、すごく効くのかもしれない」
薬屋の薬、侮りがたし。
るり子さんの激ウマおかゆを平らげた後、俺は再び眠りに落ちた。薬のせいかぐっすり眠りに落ちてしまい、気がついたらもう夕方になっていた。
「ふわ~よく寝た」
一日寝ていたので、なんだか体がなまってしまったような感覚を覚え、俺は布団から抜け出した。
着替えをして、蒲団をたたむ。なんだかとっても体の調子が良かった。のどの痛みもすっかりひいて、熱もないしどこにも異常が見当たらない。
「薬屋の薬、マジすげぇ」
階下の居間に下りていくと、詩人がクリの相手をしていた。
「夕士クン、もういいの?」
「はい、ご迷惑おかけしました。なんかすっごく体軽くって。治っちゃったみたいです」
ガッツポーズを決めると、クリが駆け寄ってきた。そのうしろにシロもついてきて、しっぽを振った。
「よかったな~クリたん。ママ風邪治ったってよ~」
「ママって……おれ違いますから……」
俺はクリを抱っこしながら言う。こんな恰好じゃ説得力無いけどな。
「そうそう、さっきパパから電話があったよ」
「え? 長谷から?」
「今週時間がありそうだからこっち来ようかと思って掛けてきたみたいだいけど、風邪で寝てるって言っちゃった。もういいなら電話掛けてあげるといいよ、きっと心配してる」
「はい、すんません」
俺はクリを抱っこしたまま電話へ向かった。
前回長谷がアパートに来たのは確か二か月くらい前だった。生徒会主催のイベント事があるとかで忙しくしていたから、そろそろ癒されに来たかったのだろう。
暗記している番号を回すと、長谷はすぐに出た。
『稲葉! もういいのか?』
「おう、なんだか心配かけたな。もう大丈夫だ。そっちは落ち着いたのか?」
『あぁ、やっつけたさ。それよりお前だ。珍しく寝込んだそうじゃないか。これから看病に行ってやろうといろいろ準備を始めてたとこだよ』
「どんな準備だよ」
『のど飴とかサプリとか……』
「それはクラスのやつにもらった」
『スポーツドリンクとか……』
「それは千晶にもらったな」
『……風邪薬……』
「薬はアパートのをもらったよ。得体のしれない薬屋から買った怪しい薬なんだけど、めっちゃ苦くてめっちゃ効く。おかげですっかり治っちまった」
『そ、そうか……じゃぁ、アパートの人が看病してくれたってことか』
「あぁ、るり子さんがたまご粥作ってくれて、みんながかわるがわる様子見に来てくれてたみたいだ。クリもな」
俺は腕の中のクリに受話器を当ててやった。
「ほらクリ、長谷だ。パパだぞ~」
クリは受話器をまじまじと見ると受話器に耳をあてた。受話器から長谷の声が漏れてくる。
『クリ~、ママの看病よくできたな~えらいぞ~』
クリは、言葉は出せないがちゃんと声は届いているらしく、受話器のしゃべり口を手でぽんぽん叩いて喜んでいる。あまりにも叩いているので、さすがに長谷の鼓膜を心配した俺はクリをおろして受話器を戻した。
「ま、そんなこんなで風邪は治ったから、普通に遊びに来いよ」
『おう、そうする。なんかすごく悔しいけどな』
長谷は少しふてくされた声を出した。
「おいおい、なんで悔しいんだよ」
『そばにいたら、つきっきりで看病したのに』
「ばか言うな。間にあってるよ」
『添い寝してやったのに』
「……それは、不本意ながらうちに来ると毎回してるだろう。蒲団ひとつっきゃないんだから」
『おっと、そういやそうだったな。じゃぁ、仕方ない。熱烈濃厚キッスで俺にうつしていいぞ』
「……長谷、もう治ったから。うつらないから。ってうかお前キャラ変わりすぎだろう!」
『ははは、許せ。おまえがあんまりにも愛されてるからさ。おいしいところ持っていかれて妬いただけだ。んじゃ、明日そっち行くからな。アパートの人たちにもよろしく』
そうして電話は切れた。
俺は受話器を静かに置いた。長谷の、俺のこと思って心配してくれた言葉が、あったかくてくすぐったかった。
「まったく……どこがおいしくてどこに妬いてんだか……」
俺は一つ伸びをして、なまった体を伸ばした。うん。調子はいつも通り。風邪とは完全におさらばできたらしい。
居間に戻ると詩人と画家がすでに晩酌を始めていた。クリとシロが絵本を出してきて広げている。いつもの日常がそこにあった。
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