ピピピッ・ピピピッ・ピピピッ……
目覚まし時計がなる。いつもの朝が始まる合図である、その音。早く止めなくてはと、ぼく瀬田歩は布団の中から思いっきり手を伸ばそうとした。
「ん?」
なんだろう、この違和感。間接がミシミシ音を立てて、腕がいつもより重い。まるで重力が変わったような感じに近い感覚。
この感覚に、ぼくは覚えがあった。
伸ばしかけた手を額に持ってくる。案の定、熱がある。
「あ~……」
ためしに声を出してみる。やっぱり喉がひりひりと痛んだ。
昨日のカラオケで、無理に喉を使ったのがいけなかったかもしれない。みんなで得点を争って、結局三時間も歌い続けていた。いつも歌なんて歌わない方だから喉が……。つまり自業自得ってことなんだけど……。
ぼくは一つ盛大なため息をついた。
「歩~、まだ寝てるの? そろそろ起きなさい」
部屋の外で母さんの声がする。いつまでも目覚ましを止めないぼくが、まだ寝ていると思ったのだろう。
ぼくはゆっくり起き上がると、目覚ましを止めて支度を始めた。
リビングに顔を出したぼくを見て、母さんは洗い物の手を止めた。
「歩、気分でも悪いの?」
「え? うん。ちょっとだるいけど、大丈夫」
「そう。もし悪くなるようなら病院行きなさい。保険証出しておこうか?」
「大丈夫だよ」
声を出すとかなり喉に響いたけど、仕事のある母さんには、あまり心配をかけたくなかった。
しかもコレは風邪でとかじゃなくて、喉の扁桃腺が腫れて熱が出ているようだったし……。
遊びに行ったカラオケが原因だなんて、お小言がいつもの三倍増しで返ってきそうで、絶対言えない。
小さい頃、よくこんな症状を出した覚えがある。喉が真っ赤に腫れて、高い熱が出る。別段くしゃみや、鼻水が出るといったようなことは無い。とにかく熱が出て、体がだるくなるなるのだ。
今日はおとなしくのど飴でもなめていよう。
「はい、トースト」
母さんから焼きたてのトーストが手渡される。
食欲は無かったけど、せっかく作ってくれた朝食に手をつけないのも不自然なので、ぼくはジャムをつけてかじった。
飲み込むときに、かなりの痛みが走り、あわてて水を流し込む。
これって、結構拷問だな……。
「歩、もう一枚いる?」
「いい!」
もう一枚なんて、たまったもんじゃない。
ぼくはコーヒーにミルクをいつもより多めに足して、咀嚼したパンを流し込んだ。そうすると、乾いたまま飲み込むより、かなり楽だった。
その作業の繰り返しを何度かしているうちに、玄関のインターホンがなった。
いつのまにか「お迎え」の時間になっていたようだ。
ドアフォンをとるまでもなく、この時間にチャイムを鳴らす人物は一人しかいない。
ぼくはこれ幸いと、足元に置いておいたかばんをつかんで、玄関に向かった。
「歩、もういいの?」
ほとんど食べていないぼくの皿を見て、母さんが眉根にしわを寄せる。
「うん、ごめん。秋本来たし、いってきます」
なんとか自然な笑顔をのこして、ぼくは玄関の扉を開けた。
「おはようさん、歩」
つい先日、ある事件をきっかけに、サッカー部の朝練が無いときは「お迎え」に来るようになった、秋本貴史の姿がそこにあった。
「おはよう」
雲ひとつ無い青空に軽いめまいを覚えながら、ぼくは後ろ手にドアを閉めた。
「……どうした歩」
「なにが?」
「顔色悪いし、いつもより声にはりがない」
ぼくは驚いて、エレベーターに乗り込む足がとまってしまった。
「……、よく判るな」
「そりゃ、いつも見てるしな。実は熱もあるやろ」
秋本と知り合ったのが中学二年の終わりの頃。今三年の6月だから、あれからまだ一年もたっていない。それなのに、なんでそんなことまで判るのか。
「よく見たら、目も潤んでる」
そう言うと、ひょいとぼくの前髪を掻き揚げて、額をコツンとあわせてきた。
「ほらな、熱い」
にやりと笑う。その顔があまりにも近すぎて、ぼくはドキリとしてしまった。
あわてて秋本を突き飛ばすと、ぼくはエレベーターに乗り込んだ。
「な、なに恥ずかしいことしてるんだよ!」
「なにって、熱測っただけやろ」
「ばか! 普通に手を当てれば判るだろうが」
いつものように大声を出してしまい、喉が痛んだ。
「まぁまぁ、そんな大声出したら喉痛いやろ」
「……」
あんまりにも図星を指されて、ぼくは秋本に肘鉄をお見舞いした。
「あうっ……、肋骨折れたかも。あたっ、あいたたた」
「……」
肘のあたった場所を押さえてしゃがみこむ秋本だが、コレくらいで頑丈な秋本の体に、ダメージを与えられたとは思えない。
「……なんや、ノリ悪いな。やっぱり休んだほうがええんとちがうか?」
見上げてくる顔はいつの間にかまじめな瞳で、ぼくはようやく口を開くことにした。
「大丈夫だよ、今日は体育ないし」
「……そっか。無理すんなよ」
「うん」
「もしかして、昨日のカラオケか?」
「むきになって歌いすぎたのかも」
「あちゃ~、それが原因か」
「なれない事はするもんじゃないね。秋本は喉平気なのか?」
「おれは平気。サッカーのとき大声いつも出してるからな」
肘鉄の後遺症も無く、秋本はすっくと立ち上がると、「行こか」とぼくを促した。
登校中、秋本は一人でしゃべっていた。ぼくがなるべく声を出さなくていいように、頷くだけでいいような話を振ってくる。
へんなところで器用な男だ。
一限目の数学、二限の科学までは、なんとか普通にこなすことができた。でも、三限目の国語からはだんだん授業の内容が、頭に入らなくなってきていた。
しかも、喉の痛みが今朝よりひどい。つばを飲み込むだけで、ヒリヒリ痛む。
せめて、くる途中に飴でも買って来ればよかったと、ちょっと後悔。
「瀬田、おい瀬田?」
後ろの席に座る高原の声がどこか遠くに聞こえる。
「ん、高原?」
「大丈夫か? なんや顔真っ白やぞ」
「え? あぁ、ちょっと喉痛くって……」
はく息が熱い。体の中が熱で溶けそうなほど熱い。
「そこ、どうした?」
その声が国語教師の声だと気がつくのに、たっぷり五秒ほどかかった。
そういえば授業中だった。
「先生、瀬田が体調悪いみたいです」
ぼくの変わりに高原が答えてくれた。
「お? 瀬田、大丈夫か?」
「はぁ」
ぼくはあいまいな答えを返した。大丈夫じゃないけれど、我慢できないほどのつらさじゃない……はず。
教師はどれどれと呟きながら教卓からおりて、ぼくのところまでやってきた。
「あぁ、顔色悪いな。高原、保健室連れて行ってくれ」
「はい。瀬田、行こう」
ぼくは流されるままに、保健室へ行くことになった。まぁ、保健室ならば寝られるし、うがい薬をもらうこともできるだろう。
「瀬田、風邪か?」
ロッカーからジャージを取り出して、保健室に向かう途中、高原が心配顔で覗き込んできた。
「いや、たぶん扁桃腺が腫れたんだと思う」
「あぁ、昨日のカラオケかぁ。じゃぁ、しゃべらんほうがええな。実はおれもちょっと痛かったりするんや」
高原はそう言って肩をすくめた。
ぼくらは授業中なので忍び笑いをしながら、保健室へ向かった。
保健室は教室のある棟とは別棟にある。渡り廊下を越えてすぐの、一階に保健室はあった。
「先生、こんにちは」
「あら、高原君。いらっしゃい。後ろのあなたは、瀬田君ね」
ぼくは転校して来てから、一度もここには訪れたことがなかったけど、保健医はぼくの名前を知っていた。
「二年のときの『ロミオとジュリエット』のジュリエット、べっぴんさんやったわ~」
あぁ、あれを見ていたわけね……。
「……それはどうも」
ぼくはちょっと気恥ずかしい思いをしながら、保健室に足を踏み入れた。
「先生、瀬田は喉やられて体調悪いみたいなんですけど」
ぼくの変わりに高原が説明すると、保健医はまずぼくを丸椅子に座らせた。
「口を大きく開けてみて」
小さな懐中電灯を片手に、ぼくのあごを持ち上げる。
「喉開くように……そうそう。あぁ、真っ赤やわ~」
言われるがままに口を開いていると、喉の奥に直に空気があたる。ぼくはすぐに咳き込んでしまった。
「瀬田、大丈夫か?」
「けほっ……こほっ……、だ、大丈夫」
空気にむせたぼくの背中を、高原がさすった。
「あらあら、堪忍な。大体判ったからもうええわ」
そういうと保健医は、なみだ目のぼくにコップと粉薬を渡した。
「それ、水に溶けるうがい薬やから、寝る前にコップ一杯うがいして戻ってくること」
「はぁ」
「あ、先生、ぼくも喉がいがらっぽいので、ついでにもらえますか?」
「ええよ~。ほんなら高原君も出たとこの水道でうがいしていき」
ぼくと同じ粉の入った袋を高原に投げてよこし、保健医はノートになにやら記入を始めてしまった。
高原と並んでうがいをし、再び戻ってくると、保健医はぼくをベットへ直行させた。
「じゃぁ、高原君。悪いんだけどコレ担任の先生に渡しておいてくれる?」
メモ用紙のようなものを高原は受け取った。どうやら、ぼくが保健室にいることを伝えるためだけのものらしい。
「瀬田、昼休みに様子見に来るから」
高原は、ベットに横になるぼくに、顔を見せてから教室に帰っていった。
「さて、瀬田君熱あるでしょう。測ってみた?」
「いえ」
「なら、はい」
電子体温計が手渡される。
ぼくは布団の中でもぞもぞと、服のしたの素肌の脇に体温計を挟んだ。
三分もすれば鳴るだろう。
ベットに横になってしまうと、すぐに眠気が襲ってきた。喉は相変わらずヒリヒリしているし、間接も痛いけれど、なにより体が重たくて身じろぎするのもおっくうになっていた。
「瀬田君、寝ちゃた?」
不意に耳元で声がして、ぼくは重たいまぶたを開けた。
「体温計音鳴ってたの、気がつかなかった?」
「あ、すみません」
「あぁ、ええのよ、体温計出してくれさえすれば」
ぼくは脇の下にあった体温計を取り出した。何度あるのか確認してみると、三十八度五分ある。
あぁ、これじゃだるいはずだよな。
「あら、結構あるわね。早退する?」
早退。家でゆっくり寝たほうが落ち着くし、できることならそうしたいところだけれど、家にたどり着くまでの道のりを考えて、ぼくはここで休むほうを選んだ。
「そうね。とりあえず氷枕して寝ることやね」
タオルでくるまれたアイスノンが頭の下に敷かれた。
冷たさがじわじわと湧き上がってくる。通常の枕より硬くて、お世辞にも寝心地が良いというものじゃない。それでも、触れたところから伝わる冷たさが、今のぼくにはとっても心地よかった。
次にぼくが目を覚ましたのは、それからい一時間ほどたってからだった。
「歩、起きられるか?」
目を開けると、天井の前に秋本の顔があった。
「瀬田、今昼やけど、モノ食べられそうか?」
となりには高原も、その向こうには蓮田もいた。
「あれ、みんななんでここに……」
「歩~、だから無理するなって言うたのに」
のろのろと起き上がるぼくに、秋本が芝居かかった大げさなアクションで抱きついてくる。
「こらこらこら。大騒ぎするなら、おんだすよ」
ぴしゃりとカーテンの向こうから、保健医の鋭い声が飛んでくる。
「すんませ~ん」
秋本、高原、蓮田がぴったり息をそろえて返事をした。
「瀬田、食べられるようなら昼飯食わんか?」
ぼくのかばんを持ってきた高原が言う。
「具合悪いようなら、コレだけでも食べてくれ」
蓮田がどこで買ってきたのか、おおきなプリンを差し出してきた。
「なんや、ここは食料持込禁止やて先生言うからな、外の木陰で優雅なランチなんてどうや?」
さりげなくぼくの体を支えつつ、秋本が笑った。
みんな、いつもは教室でガツガツ食べて、サッカーに行ったり、のんびりしたりしている時間だろうに、わざわざぼくのところまでお昼を持ってきたらしい……。
心遣いが胸にしみこんでくる。不意に目頭が熱くなって、ぼくはあわててベットから抜け出した。
みんな優しすぎだ。
相変わらず体は鉛のように重かったが、ぼくはみんなと昼ご飯が食べたかった。
「外で、食べるよ」
「よっしゃ!」
高原と蓮田がドアに向かうのに対して、秋本はぼくの前に立つと、後ろ向いてしゃがみこんだ。
「なにしてんだ?」
「なにって『おんぶ』。はよ乗り」
ほれほれと後ろに回した手で、ぼくの足をたたく。
「ばか……歩けるよ」
喉に響かないように小さく呟くと、ぼくはきしむ関節に鞭打ってヘッドロックをかけた。
「うっ、く・ぐるじい~~」
秋本がギブギブと腕をばたつかせるので、ぼくは解放してやった。
「それだけ動けるんなら、大丈夫やな」
ほっとした表情を見せる秋本。本気で心配していたらしい。
「秋本って案外過保護で心配性だったんだな」
「ん~、おれも今思ってたとこ。でも、こんなに心配したの歩が初めてかもしれん」
常々、秋本はキザなセリフを言うヤツだとは思っていたけれど、ただの天然野郎なのだと、考えを改めたほうがいいかもしれない。
「……アホ。おまえね、そういうのは彼女になる子に言うもんだろう」
ぼくは秋本を残して、さっさと高原と蓮田の待つ校庭へ踏み出した。聞いているこっちが恥ずかしくなってくる。
「歩はおれにとって特別やから。ええんとちがうか?」
ひょうひょうと後ろをついてきながら、追い討ちをかける秋本。
「……」
ぼくは返す言葉も無かった。
PR
COMMENT