田代の朝は、いつもより三十分早く始まった。まだ少し眠い目をこすって、洗面台に向かう。身支度をしてパンにカフェオレの朝食を済ませると、部屋に戻って支度を整える。カバンの中には教科書やノートのほかに、充電した携帯電話と、デジタルカメラ。
今日の田代にとっては必需品だった。
「ふっふっふ。バッチリ激写しなくっちゃね~♪」
今日は健康診断のある日。自分たちはもちろんのこと、教員たちも検診を受ける。我らが担任、千晶も例外ではない。
「千晶ちゃんの生肌ゲットのチャンスよ。抜かりはないわ」
野望のためには睡眠時間を削ることもいとわない田代だった。
始業前の教室では、上野が数学のプリントと格闘していた。宿題で出されたプリントの提出期限が今日までだったことを、すっかり忘れていたからだ。
「あ~っくっそ~。だめだ。間に合わねぇ」
数学は二時間目、今から解いたのでは、到底間に合わない量だった。
「はよ~、上野」
頭を抱えているところにやってきたのは、稲葉だ。三年になるまで、そんなに会話するような仲じゃなかったが、二年の修学旅行以来だいぶ仲が良くなった。少し釣りめなせいで、とっつきにくい印象だったが、話してみるとちょっと変わったところがあるが、結構面白い奴だった。
「はよ~稲葉~、なぁ~お前プリントやった?」
「おう、やったよ。なんだ、忘れたのかよ。写すか?」
「稲葉~~、後光が見えるよ~」
「なんじゃそりゃ。ほら、さっさと写しちゃえよ。時間ないぞ」
そう言うと、稲葉は早速プリントを出してくれた。稲葉の成績は学年でも中の上。ありがたかった。
稲葉がカバンをまさぐる時、ふと髪からシャンプーの香りがした。
「稲葉って、朝っぱらからいい匂いさせてんな」
「はぁ? 何言ってんだよ上野」
稲葉は軽く流したが、上野はふと気になって、プリントを持つ稲葉の手を引いた。バランスを崩して机に倒れこむ稲葉。
「うっわ、なにすんだよ」
「いや、ちょっと気になって」
上野は目の前にある稲葉の襟首に顔を近づけて、スンスンと鼻を鳴らす。
「なにやってんの? 上野」
「おまえ、朝風呂入ってんのな」
「え? あぁ、まぁ。早起きで時間あるから……」
「余裕だな~。おれいっつもギリギリまで寝てっから、朝飯食うんで精一杯だよ」
「だったら早く寝ろよ」
「そうなんだけどよ~、それができないからギリギリなんじゃんか」
そんな他愛もない会話をしていると、後ろから変な音がいろいろと重なった。
ぴろりろり~。
ピピピッ、カシャ。
「スクープ、稲葉の浮気現場」
「いけないんだ~、千晶ちゃんにちくっちゃうぞ~」
声の主は田代と桜庭。二人は携帯を構えた姿で不敵にほほ笑んでいる。
「田代、俺は誰とも付き合ってない。だから浮気なんて言葉は当てはまらないぞ。そんで桜庭、なんでそこに千晶が出てくるんだよ」
「だって~ねぇ」
「ねぇ~」
「稲葉ダーリンだし」
「千晶ちゃんハニーだし」
稲葉はなぜかこの女どもと仲がいい。別に付き合ってるとか、そういうものではないという。稲葉曰く「男のダチとかわんねぇよ」
担任の千晶は誰もが認める人気者で、よく写真が出回っているが、稲葉の写真も千晶と一緒のものを含めると相当出回ってると聞く。
「上野、お前も反撃してくれ」
「えっ、そんな田代たちにかなうわけねぇじゃん」
「いきなり白旗かよ……」
がっくり落ち込む稲葉に、まぁまぁと上野は声をかける。
「このプリントのお礼に、昼休みプリンかアイス奢ってやるからさ」
三時間目、次は英語の時間だったが、あらわれたのは千晶だった。
岩崎は読みかけの漫画をあわてて机の中へ押し込んだ。
「英語の時間だが、健康診断の順番が回ってきた。健康診断表渡すから出席番号順に取りに来てくれ。男子から、稲葉」
「はい」
「岩崎」
「は~い」
健康診断はいささかかったるいが、英語の授業がつぶれるのは好ましい。稲葉の後をついて教卓へ向かう。
担任の千晶は個人表を眺めながな、なにやらニヤニヤしていた。
「稲葉、効果出てるといいな」
そう言って稲葉に個人表を渡す。
「……うるせぇよ」
稲葉はぼそりとつぶやいて、席に戻って行った。
「ん?」
その時は何の事だかさっぱりわからなかったが、後々岩崎は知ることになる。
個人表がいきわたると、出席番号1番の稲葉に行き先を告げて千晶は戻って行った。
「なぁ、稲葉。さっきの千晶なんて?」
「あ? あぁ、俺去年からあんまり身長伸びてないみたいだったからさ」
「へぇ、そうなんだ。低いって程の背じゃないだろうに。まぁ、俺は絶賛成長中だからな、去年よりは伸びてる自信ある~」
「にゃろう、ムカつく!」
稲葉がヘッドロックをかましてきたので、岩崎は早々にギブアップした。
そんな二人のを追うように後ろからなにやら音がした。
ぴろりろり~。
「田代! 撮るのやめろ」
健康診断が終わった午後、田代・桜庭と昼ごはんを一緒に食べた垣内は、部室へと急いでいた。6時間目に体育があったことを忘れて、ジャージを部室に置きっぱなしにしていたからだ。
弁当を食べている間、午前中にあった健康診断の話題で盛り上がりすぎてしまった。去年より体重が増えたとか、それは胸の脂肪の分だとか、身長が一センチしか伸びてないとか、視力が下がったとか……。
垣内自身は陸上をやっているせいか、みんなほど体重はさほど気にしていない。体重はもちろん去年より増えていたが、身長もまぁまぁの伸びだったので、やせもせず太りもせずといったところか。そして、なぜか視力が上がった。
ちゃんとした結果は後日コピーが配られるが、教室に残っている女子はさっそく今後のダイエットについての話題でもちきりだった。
五時間目が始まるまであと十分強。もうすぐ予定が鳴る。
部室は別棟にあるので、垣内は急いだ。部室のある校庭の脇にある別棟までダッシュ。ロッカーから学年用のジャージをひっつかんで速攻でUターンする。
行きの階段は下りだったが、帰りは上りだ。
「う~、さすがにきつい」
それでなくても行きに走った分、昼食に食べたご飯が胸に詰まって苦しい。
すでに予鈴が鳴って、生徒はぞろぞろと教室に入っていく。人通りの少なくなった階段を垣内はゆっくり上った。
「まだ5分ある。大丈夫、かな」
時計を確認してみると、思ったより時間がかかっていない。最高学年になってよかったことは窓からの眺めが良くなったことだが、その分階段の量が増えたので、+-ゼロだ。
あと一階分、ゴールまでもうすぐというところで、聞き覚えのある声が上から響いてきた。
「まぁ、まだまだ伸びるさ」
担任の千晶の声だった。人気がなくなった階段はよく声が通る。
「そうだといいけどな……って、頭押えるなよ、伸びなくなったら困るだろう」
こちらは稲葉の声。どうやら階段を下りてきているらしい。
「こんなんで、身長とまるかよ」
「そりゃそうだけどさ、何となく」
「何となくねぇ。まぁ、この高さも悪かねぇけどな」
「なんで?」
「こうやって並んで肩を組むとちょうどいい高さなんだよ」
「おいおい、俺は肘掛代りかよ」
だんだん近くなる声を聞きながら、階段を上がりきると、ちょうど声の主とバッティングした。
「あ、垣内」
「よう、垣内。もう予鈴なったぞ」
垣内の目の前には右手に弁当箱と牛乳のパック(たぶん空)、左手に文庫本をもった稲葉と、右手はポケット、左腕を稲葉の肩に回した千晶が並んでいた。
あまりにも平然とくっついている二人に、垣内は一瞬固まった。
「じゃぁな、千晶」
「おう、早く教室いけよ」
文庫本をあげる稲葉に、稲葉の肩を離れた千晶の左手がひらひらと答える。千晶はそのまま階段を下りて行った。
「何つったってんだよ、垣内。遅れるぞ?」
稲葉の言葉で我に返った垣内は、一つ大きく深呼吸をして、いつのまにか歩き出している稲葉を追った。
「あ~びっくりした。すごいもん見ちゃったよ」
「は? すごいもんって?」
「だって、あんた千晶ちゃんと肩組んで平然としてるんだもん」
「あ? いや、だって千晶ってどっちかって言うとスキンシップ多い方だろ? 肩組んでくるのって結構あることだし、髪の毛ぐしゃぐしゃにされたりもしょっちゅうだし……」
「千晶センセが稲葉以外のクラスの男子と肩組んでるところ、見たこと無いけどね」
「…………そうだっけ?」
稲葉は少し歩調を緩めた。
「そうだよ」
垣内は稲葉を追い越し、先に教室の扉へたどり着いた。
「………いやいや、垣内が見てないだけだって」
「たぁ~この写真を見れば一目瞭然」
垣内はニヤッと笑い、ひきつる稲葉を廊下に残し、まだざわつきの残る教室へ踏み込んだ。
「たぁ~こ~、聞いて~、さっきそこですごいもん見ちゃった~♪」
「わ~~~!! 垣内やめろ! ストップストップ!! 田代にばらすな!」
廊下であわてる稲葉を締め出して、友人の田代に手を振る。
「なになに~、どんなネタ~?」
聡い田代が手を振り返したところで、ちょうど五時間目の始まるチャイムが鳴った。
放課後、誰もいない教室で、桜庭は携帯電話のデータファイルを整理していた。
田代が生徒会の仕事をかたしている間の暇つぶしにはちょうど良かった。
今日は帰りがけに、前から気になっていたケーキ屋さんへ行く予定だった。田代から「あと十分くらいで終わる」とのメールが入ったので、帰り支度を早々に済ませ、携帯電話の液晶画面とにらめっこをしている。
写真のデータはほとんどが担任の千晶で、その次に稲葉、近所の猫、田代と垣内と続く。
「意外と自分の写真って、少ないなぁ~」
手ぶれしてしまった写真を切り捨て、気に入った写真はデータを別フォルダに移す。そんな作業を続けていると、不意に扉がガラリと開いた。
田代が戻ってきたかと思ったら、そこにいたのは千晶だった。
「あ、千晶ちゃん!」
「なんだ、まだ帰ってなかったのか桜庭」
「うん。たぁこ待ってま~す」
「そうか、遅くならないうちに帰れよ」
「は~い。あ、そうだ先生、見て見てこれ~」
桜庭が携帯をつきだすと、千晶は教室の中まで入ってきた。
「なんだ?」
「これ、今朝の稲葉くんの浮気現場でっス」
「桜庭ぁ~」
脱力する千晶に、ほらほらと自分の携帯を無理やり押し付ける。
「上野君とじゃれてる稲葉君。修学旅行からこっち、よくこんなことするようになったんだよね~。岩崎君とか桂木君とかとも」
「そっか……。桜庭はよく見てるな」
目を細める千晶の顔に、桜庭は少し照れながら千晶の手にある携帯の端末を操作した。
「稲葉君は注目株だからね。あ、でも稲葉くんの写真で一番多いのは先生とのツーショットだから、安心してね。ほら」
桜庭が指定したフォルダを開くと、大量の画像が出てきた。
学校内でのもの、遠足のときのも、修学旅行のものあれば、授業中の画像もある。すべて千晶と、稲葉が一緒に写っている。
「……なんで、授業中のものがあるのかな? 桜庭」
「あ、やばっ! ごめんなさい。それ、結構前のものだから見逃して~!」
「没収。と、言いたいところだが、時効ということにしておいてやる。二度目はないからな」
「あわわ、ありがと~先生~。お礼に秘蔵写真あげる!」
桜庭がごそごそとカバンをあさりだしたとき、田代が戻ってきた。
「あ、たぁ~こお疲れ~」
「桜~、お待たせ~。あ、千晶ちゃん! 見回り?」
「そうだ、桜庭が残ってたからな。さぁ、田代も来たことだし、帰った帰った」
「あ~、ちょっと待って~」
せかす千晶に、桜庭はもたつきながらもカバンをあさり、封筒を一枚取り出した。それを千晶に押し付けて、急いで教室を出る。
「それじゃ、さようなら先生! また明日ね~」
「おう~」
「バイバ~イ先生!」
元気よく教室を後にする。
「何、桜。千晶ちゃんに何あげたの?」
「ふっふっふ。今日たぁこに焼き増ししたアレだよ」
「アレ? え、マジ?」
「マジ」
「ぶはっ、さ、サクラ、あんたサイコー! 最強―!」
田代は軽快に階段を降りながら、カバンの中から、先ほど桜庭が千晶に挙げた封筒と同じものを取り出す。その中身はというと……。
「よく撮れてるよ。この稲葉のヌード写真!」
もちろん、完全なヌード写真ではない。着替え途中の上半身裸の稲葉が、窓を背景に後ろ向きで立っている写真だった。ちょうどウエストのところから写っているせいで、ズボンが隠れ、何も身に付けていないかのように映っているだけだ。
「背中きれいだよね、稲葉君」
「そうよね、しかも、稲葉って程良く筋肉付いてるから、ちょっとエロいよね」
「うんうん、なんか色気のある体だよね」
「そんな稲葉の写真、千晶ちゃんにあげちゃうなんて、ほんと、桜ってばサイコー!」
「千晶ちゃん、この写真どうするかな~」
「そりゃぁ、飾っとくわけにもいかないし……?」
「え~、じゃぁどうすんの~……?」
「…………そりゃ、もうアレしかないでしょう」
「アレか」
「アレだ」
「アレね……」
「アレよ…………」
「アレって何だ?」
突然降ってきた声に、階段の途中で振り返る。階段の上から千晶が体を半分のぞかせ、顔をひきつらせていた。
「お前らな、声が階段じゅうに響いてんだよ。馬鹿言ってないで、とっとと帰れ!」
「やっば!」
「帰りま~す」
千晶があの写真を最終的にどうするのか気になるところだが、今は教えてくれそうにないので、ほとぼりが冷めたころに聞いてみよう。そんなことを考えながら桜庭は階段を駆け降りた。横を見ると、田代が同じことを考えていたように、ニッと笑った。
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COMMENT
すみません。
一週間くらい前に通販メールを送らせていただいたのですが届いていないでしょうか・・・?
もしかしたら私が誤って都様のメールを消してしまったかもしれないのです。
すみません。
もう一度メールを出した方がいいでしょうか?
短文、乱文ですが失礼します。
Re:すみません。
メール確認致しました。
葵様のメールなのですが、どうやら届いていないようです。
こちらから一度メールを差し上げますので、そちらにご返信くださいますようお願いいたします。